コロナ禍の発信について考えたこと

こんにちは。
今日はささやかながら、このコロナ禍の中で、SNSについて自分なりに考え、実践したことについて書き残しておこうと思います。

 

コロナ禍の中、特に日々状況が深刻化していく3月から5月頃、
とにかく皆が不安で、多くの人が傷ついたことでしょう。

SNSでは
毎日毎日アップデートされるヤバそうな情報。
海外の重傷者や医療現場の惨状、
それに対して東京オリンピックとか言っちゃって
遅々として進まない国内の対策。

そんな中、
かなり多くの方がSNSのアカウントを停止したり、
「低浮上」になり発言をしなくなったり、
アプリを削除して閲覧頻度を下げるなどされていたようです。

以前とは「豹変」して、
大変悲観的で攻撃的なアカウントになってしまった方もいらっしゃいます。

 ◇

不安になってくると、
自他の《違い》が許容しづらくなります。

普段なら、飲み込める程度の《違い》も、
不安と警戒で心が疲れているから、スムーズに飲み込めない。

そこでは、人との《違い》はストレスになります。

自分が《間違っている》可能性が出てくるからです。

ただでさえ不安なのに、
現在の自分のあり方が《間違っている》とは思いたくないです。

だから、その可能性を解消するために、
自分と異なるものを否定したり非難したり、
異を唱えたりします。

そうして自分を守ります。
身を守るための反応です。

それらすべては人の心の営みとして、
ごく自然な、ある意味で当たり前のことです。

 ◇

面白いな、と思ったのは、
そうして追い詰められると、
「その人の戦い方」みたいなものが強調されることです。

政治家を激しく攻撃する人。
情報の少ない人や自分より理解の足りない人を見つけてけなす人。
それぞれです。

しかしそれらの、小さく立てられた「角」が波を起こし渦のようになって、
余計に多くの人が傷ついているように見えました。

 ◇

そんな中。

休業要請など、事態の影響を受けにくい自分は、
元気に活動して、人の役に立ちたいと思いました。

しかし自分自身もやっぱり不安で、
そこかしこに存在し、際立てられる《違い》に疲れ、
少なからず傷ついていることにも気づきました。

結局、特別なことではなくて、一人のアーティストとして

『心洗うような絵を描いてお届けする』

ことと

『人を不快にするような言葉を発したり、闇雲に異を唱えたりしない』

に着地しました。

 ◇

「違いをことさらに表明する必要は、今はない」

違いではなく、通じることを。
分断ではなく、つながりを。

「こんな時」だからこそ、自分が体現していこうと。

ささやかではありますが
しかし強い意志で、そうすることに決め、ひそかに貫いてきました。

アーティストとしての矜持です。

それが正しいとか偉いとかではなく、
自分に課した決めごとです。

現実から目を背けるのではなく。
考えるのをやめるわけではなく。

でも、わざわざ異を唱え、違いを際立てるような発信を、
「今はしない」。

この不安な、人々の心が追い詰められていく、
半ばパニックと言っていい状況の中で、
そのスタンスを貫くことが、
自分の、アーティストとしての“戦い方”でした。

アートには、さまざまな役割、スタイルがあります。

現実の政治や風刺を思い切り作品や自らの発言に乗せるスタイルもあれば、
やさしいおとぎ話のような世界もあります。

私は、創作物が持つ

「国や性別、世代、考え方や、現実的な価値観や利害さえも乗り越えて、共鳴し合える」

その力を心から信じ、人生を捧げてきました。

つまり

《違いを乗り越える力》

です。

《分断ではなく、共鳴のための創作でありたい》

と、本当にそう思います。

創作を通して、人との隔たりを越えたいと、本当に思います。

そうして日々、ひとりでも共鳴が生まれ、世界のどこかの誰かの気持ちを癒やせれば嬉しいです。

そんなことを再確認した期間となりました。

ウイルスは全く解決していませんが、
人々はこの状況自体にだいぶ慣れて、平常心を取り戻して来たかに見えます。

なので、そろそろ私もそれなりに異を唱えたり、
それなりに普通にやっていこうと思います。

ではまた。
最後まで読んでくれてありがとうございます。

川口 忠彦

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