『NIGIMITAMA現出』

 渡辺洋一 / 神社本庁神職階位 正楷(明階課程修了)

 

I. NIGIMITAMA概説 ~「黒キ太陽ノウタ」という祭祀~

 

掛けまくも畏き伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 禊ぎ祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等 諸々の禍事 罪 穢有らむをば 祓へ給ひ清め給へと白すことを聞こし召せと 恐み恐みも白す

─ 祓詞

  先日、天王町のOrange County Brothersにて行われたTERROR SQUADのライブに伺う機会に恵まれた。そのステージは、さながら力の奔流。人を圧倒せしめる音の壁。場にいるものを飲み込み巻込んでいく渦であった。そして、その中には人々がいた。自らその渦に飛び込み、うねりに身を任せ、狂乱の一部となる人間がいた。その姿は、祭を執り行い、神の来迎を歓ぶ人々に重なり、そして繋がるものだ。

 

 本来のTERROR SQUADの表現を<荒魂>とするときの、これは<和魂>の体現だと考えてつくっていった。

 ─ 『NIGIMITAMA』カバーコメントより

  神々の荒ぶる一面を表す荒魂(ARAMITAMA)は、人々の祭祀を通じて鎮まり、穏やかな働きを持った和魂(NIGIMITAMA)となる。本アルバム『NIGIMITAMA』には、わかりやすい音の狂乱は存在しない。だが、それはあくまで表面上の話だ。和魂も荒魂も”あるもの”の側面の話でしかない。核となる部分に暴風のごときパフォーマンスと同じ力を秘めつつ、アンビエントとして結晶した本アルバムは、川口忠彦を斎主として執行された祭祀であり、TERROR SQUADの意思そのものである。

 

II. 各曲解説 ~NIGIMITAMA考~

■ 邂逅

 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川のわれてもすゑに 逢はむとぞ思ふ

 

詠んだのは崇徳院である。この世界において、我々は常に何かと、誰かと邂逅し、絡み合い、一時の別れがあり、再会があり、そして終の別れがある。

本アルバムは、邂逅する人々の足音のごときピアノで始まる。この「NIGIMITAMA」を通じ、我々は一体何に邂逅することになるのだろうか。

■ 光河 ~序奏~

「光河」というタイトルから最初に受けたイメージは「天の川」であったが、実際に聴いてみると、むしろ足元から光の如き音が立ち上ってくる様であり、それは地上にある光河を強くイメージさせるものだった。

伊勢の神宮の内宮は、神域に入る際に五十鈴川を渡る。神道においては、人工的な灯りの無い真の闇を「浄闇(じょうあん)」という。一切の人の営みから隔絶された浄闇の中、眩いばかりの月明かりを映す五十鈴川は、人と神とを分かつ、まさしく地上に現出した光河である。

■ The Edge of The World   詩「境界」

問を繰り返す詩が荒涼とした音に乗って流れ出す。寂莫(せきばく)とした曲だが、舞台は都市でも変わらない。

人の生活は境界によって形作られている。自分があるから世界があり、他者がいるから自分がある。自分を理解することもままならないまま、他者を本当の意味で理解することもできず、他者とすれ違うだけの世界に生きるのは、さながら荒野に一人で立っているが如きものだ。

■ 幸魂(さきみたま)

「一霊四魂」とは、神道における霊魂観であり、四魂とは「荒魂」「和魂」「幸魂」「奇魂」を指す。本曲のタイトルになっている「幸魂」は、一説には、狩猟・漁猟における獲物(さち)をもたらす神の機能とされる。

幸せの定義は時代の変遷によっても変わり、また、人によっても様々だ。現在における”幸”のあり方は、古代のそれと比べると、遥かに多種多様である。

響き合う音に身を任せながら、思考を拡散させよう。自分にとって幸せとは何なのか。そして思考を収斂させよう。では何をすべきなのかを。

■ 東雲

日本には、古来より夜明けを指す言葉がいくつかある。「夜明け」「暁(あかつき)」「曙(あけぼの)」「黎明(れいめい)」「彼誰時(かはたれどき)」そして「東雲(しののめ)」。

「東雲」は、闇から光へと移行する夜明け前に茜色にそまる空を意味する。空が陽の光を帯び始めたとき、「夜が終わる」と思う人もいれば、「朝が来た」と思う人もいるだろう。この「NIGIMITAMA」には、実はそういった変遷の境界をイメージさせるタイトルが多い。なかでも、本曲「東雲」は、これまでの夜の終わりと次なる日の始まりを表す鐘音だ。

■ 極北の冥府

「極北」とは大きく二つの意味がある。ひとつは文字通り「北の果て」、そして今ひとつが「物事が極限まで達したところ」である。想う人を失ったときの喪失感は何事にも変えられない大きな穴だ。だからこそ、その穴を埋めるため、人間は必死で死後の世界を想像してきた。

本曲の持つ寂寥(せきりょう)感は、死した人が至った冥府の情景だろうか。否。それだけではない。これは、残された人の想いでもある。

■ 八咫鴉

 天つ神の御子をこれより奥つ方にな入り幸でまさしめぞ。荒ぶる神甚多なり。今、天より八咫烏引道きてむ。その立たむ後より幸行でますべし。

─ 『古事記』 中つ巻 神武東征

 八咫鴉は神武天皇の行幸を導いたという神獣である。かのカール・グスタフ・ユングは、自身の「分析心理学」において「集合的無意識」を提唱した。これは、人間の無意識の深層に存在する、個人の経験を越えた先天的な構造領域のことを指す。これまでの自身の制作物、即ち自らの人生を再構築し、個展という場を結実させて更に次なる場へ進もうとする川口忠彦の本人の想い。その衝動が、集合的無意識の扉を開け、旅の先達たる「八咫鴉」をタイトルとして導き出したといっても過言ではない。

■ 神話  詩「神話」

人の一生の特異性はまさしく奇跡と言っていい。自分と同じ人生を辿る人など誰一人としていない。都会の喧騒を歩けば、その多くの人生とすれ違う。誰しもが神話の主人公に憧れたことが一度はあるだろう。だが、気がつけばその憧れを忘れ、押し込め、日常に埋没する。しかし、どんなに埋没しても、人生の特異性は変わらない。それは一人一人の神話なのだ。どのような神話を形作るのか。それは自分にしかできないことである。

■ 天奏(ににんそう)

不思議と日常の何気ない風景を想起させる曲である。妻と二人、部屋でお茶を飲みながら、ゆったりと流れる時間に身を任せているようなイメージに包まれる。「天」という字を分解すると「ニ」と「人」となる。「ににんそう」が「二人奏」なのであれば、まさしく最愛の者と過ごす生活を指すだろう。安寧な生活は、奏じられた天上の楽(がく)に等しい。

■ SOMA ~in the Abyss~

ある意味、本アルバムをもっとも象徴する曲であろう。TERROR SQUADにも「SOMA」という曲があるが、是非、聴き比べてほしい。TERROR SQUADの楽曲群において「SOMA」は確かに異色ではあるが、その根底に胎動する力強さは、他のどの曲にも劣ることはない。

翻って『NIGIMITAMA』における本曲はどうか。TERROR SQUADの「SOMA」から、さらにエッセンスを抽出した透き通った雰囲気を持つ曲である。だが、忘れてはならない。力の行使には様々なあり方がある。力をそのままぶつけることで何かを引き起こすこともあれば、行使を押さえるが故にその力がより大きなものと印象付けられることもあるのだ。まさしく和魂の本質が如実に現れた一曲である。

■ 御霊ふり  詩「無題」

レクイエムのごとく魂を送り出すように鳴り響く音に乗せ、生と死の本質を真っ向から問う詩が流れ出す。あたかも亡くなった魂に語りかけるように、そして、遺された者達に伝えるかのように。

神道思想において、魂振/霊振(たまふり・みたまふり)とは衰弱した魂を、呪物や身体の振動によって励起することを指す。心折れ、現実に絶望したとしても、生きる為、生き抜く為に自らを奮い立たせるには魂を躍動させるしかない。鎮魂歌は亡くなった魂を鎮め、そして、遺された魂に生の重みを知らしめる。

■ 和魂(にぎみたま)

初めて聴いたときにもっとも衝撃を受けた曲である。

震災後、広島の平和記念公園で録音したという環境音に始まり、実に都会的な旋律が流れ出す。荒魂を祭祀により鎮まりいただいたものが和魂とすでに説明したが、ここで執行されたのは実に現代的な祭祀だ。

ややもすると、神道的なイメージは古典的な楽曲に帰結するが、それは否である。なぜなら、時代の変遷と共に、その祭祀は形を変え、都市には都市なりの信仰と祭祀があるべきだからだ。

甚大なる被害を及ぼした原爆から復興を遂げた広島の”音”に乗せ、様々な思いを収斂させた本曲は、現代における祭祀のあるべき姿の一端を示している。

■ 邂逅 ~六弦~

邂逅した我々は此処に至った。

人の関係は安定しているように見えても、日々様々に姿を変える。人と人の関係は、感情の流れに乗った木の葉に等しい。改めて崇徳院の詠んだ歌を引こう。

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川のわれてもすゑに 逢はむとぞ思ふ

人と人が邂逅した後、どうなるかなど誰にもわからない。だが、仮に別れたとしても、また会いたいと思えるならば、必ず再会の廻りはあるはずだ。邂逅と別れを暗示すると同時に、再会の希望がこの曲にはある。

■ 奇魂(くしみたま)

「奇魂」は、その超自然的な力をもって人に奇瑞(きずい)という、めでたいことの前兆として起こる不思議な現象をもたらす神の機能とされる。また、ある説によれば、病気を治したり人に健康をもたらすといった医療の作用にも関わっているとされている。

人の体は生まれたときから死を迎えるまでリズムを刻み続ける。心臓の鼓動は生の躍動だ。徐々に厚みを増し、背後から浮かび上がってくるドラムの音は、生まれ、成長し、活性化し、そして終わりを告げる人の一生を印象付ける。この世に生れ落ちたことが奇跡ならば、その鼓動は、人の一生に先駆けた奇瑞である。

■ 光河

本アルバムに流れるメッセージの一つに「生」というものを感じ取らずにはいられない。人生は始まり終わるものであるが、それを受け入れ、だからこそ何を成すのかということを強烈に訴えかけてくる。

地面より立ち上った光が、淡く足元を照らしながら体を這い上がり、そして天に昇り溶けていく。河は此岸(しがん)と彼岸(ひがん)を分かつ境界線であるだけでなく、水上から水下までの流れという側面を持っている。「光河~序奏~」に重ねて言おう。人の一生は、まさしく地上に現出した光河である。

■ 黒き太陽の歌  詩「荒魂~The Rord of SOMA~」 「黒キ太陽ノウタ」

とうとう和魂が揺らぎ荒魂が現出することとなった。

曲を聴き込めば聴き込むほど、詩を読み込めば読み込むほど、現実社会に対する諦念とその上に立脚した強い希望を突きつけられる。人は強いものだけが生きているのではない。生きているものは遍く強いのだ。

自分の思うままに生きる人もいれば、誰かのために生きる人もいる。なにものにも動かされぬ堅固な心を持つ者もいれば、硝子細工のような心を懸命に守って生きる者もいる。この曲は、それぞれの人生を戦い抜いている者達が、毎日まみえる太陽に向け、力強く叫び、そして静かに歌い上げる凱歌だ。

 

III. 結びにかえて ~NIGIMITAMA現出~

神道の霊魂観には、人の持つ多様性というものが大いに反映されている。その名を冠する本アルバムは、川口忠彦の、そしてTERROR SQUADの持つある一面でしかない。邂逅に始まったアルバムは、黒き太陽の歌という凱歌で終焉を迎えるが、これは何の終わりも意味しない。旅の先達を務める八咫鴉が控え、時は東雲となった。本アルバムはひとつの成果であり、また、次なる第一歩を踏み出すその瞬間に過ぎない。次なる御魂の現出を我々は祈り続ける。

(了)

 


 

渡辺洋一
神職を学んだ後、能楽の世界を経て、営業職への華麗なる転進を遂げた陰陽営業師。
特に神道、日本古典への造詣が深く、『NIGIMITAMA』のコンセプト段階からから実現に至るまで数多くのインスピレーションをいただいた。

○twitter : @youichi1977

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